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ぐうたら主婦のきままな日々

 いつのまにか70代に突入…でも健康で楽しく過ごしたい…そんな気ままな日々を綴ります

Top Page › グルメ › 花こん
2012-09-22 (Sat) 00:03

花こん

花こんってご存知ですか?
ご存じないでしょうねえ。

まずは実物を。

9/18 花こん

これはこんにゃくです。
かまぼこのような形で、まわりがなるとのようにギザギザしています。
切ると花のように見えるから(?)花こんにゃく…略して花こんと呼んでいました。
(お店では「かまぼここんにゃく」で売ってました)
普通のこんにゃくとはひと味違って、澱粉が入っているので(私の記憶では)
柔らかいんです。

どういう風に食べるかというと、もっぱらおでん種でしか食べたことがありません。
しかし、これはほぼ幻の味でして、おそらく横浜でも一部の地域の人しか知らない
こんにゃくのようです。
横浜を離れた35年くらい前から、まったく目にしなくなりました。

花こんにまつわる思い出は、そうですね、時代的には「3丁目の夕日」と同じ
懐かしい昭和30年代の話です。
子供の頃楽しみにしていたお祭りの縁日のお店は、今と違ってそう種類が
ありませんでした。
金魚すくい、ヨーヨー釣り、セルロイドのお面、射的、輪投げ…
食べ物はお好み焼き、綿あめ、カルメラ焼き、アンズ飴、ハッカパイプ、おでんなど。

そのころ甘いものが苦手な変な子供だった私は、よくお好み焼きとおでんを
買いました。
そのおでんの中で一番好きだったのが、というよりそれしか買ってなかった。
それがこの「花こん」なのです。

思い出して串に刺してみました。
9/18 花こんのおでん

縁日のおでんだけでなく、当時家で作るおでんにも必ず入っていました。

なんかの折に思い出して、以前ネットで検索しても出てきませんでしたが、今年の
6月によく見ている夕方のニュース番組で見かけたんです。
内容は横浜の「ジャガイモ入り焼きそば」のお店を紹介していたんですが、その店内
にあったおでんの鍋がちらっと写りました。
すると、なんと「花こん」があるではありませんか。
ええっ、まだ絶滅していないんだ!

急いで店の名前や「花こんにゃく」で検索してみると、まだわずかに製造されている様で、横浜そごうの地下にあるお豆腐屋さんで売っているという情報を得ました。
かといって、わざわざそれだけ買いに行くのもなんだし、ついでの時に買おうと考えていました。

そして先日友達と八景島シーパラダイスに行った帰り(横浜経由なので)に立ち寄って買ってきたわけです。
妹も大好きだったので妹の分も買ってきて、昨日、妹が取りに来ました。
まだ、ちょっと暑いのですが、私も妹もおでんを作りましたよ。
(私は前夜に続いて2日目もおでん)

味は…昔と同じとは言えないけど(昔食べたものより薄味に作った)、でも懐かしくて美味しかった。
東京出身の夫はもちろん知らなくて、初めて食べました。
味はどうだったかな?私のように思い出込みではないので、それほどでもなかったかも

もうひとつ、エピソードがあります。
それはREAD MOREで。

「花こん」にまつわるもう一つのお話。
それは、母の思い出です。

うちの父は48歳の時に、突然事故で(釣りの事故)亡くなりました。
母は父より一つ年下の47歳、私はまだ中学2年生でした。
それまでも貧しかったので母は働いていましたが、その後は一家の生計を担うことになりました。

その当時、中年の女の人の働く先なんてなかなかあるものではなく、肉体労働しかありませんでした。
父が亡くなる数年前から働いていた先が「お豆腐屋さん」。
「お豆腐屋さん」といっても小さな店ではなく、社員が30人位(?)の食品会社です。
(ちょっと、花こんとのかかわりが見えてきましたか?)
まだほとんど手作業の時代で、母は油揚げの担当で、一日手揚げしていました。
いつも香ばしい匂いがしていたのを思い出します。

頑張って働いていましたが、私が高校3年の頃になると更年期のせいでしょう、体調を崩し、家で寝込むようになりました。
その後何度か入退院を繰り返し、仕事は出来ない状態でしたが、そのお豆腐屋さんの社長夫人が訪ねてきて、一日寝たり起きたりしていても元気になれないから、
簡単な仕事だけでもしてみないかと。
母が最初に勤めていた場所は手狭になり工場は移転してました。
その最初の場所が近所の小売店への中継場所になっているので、その取次の仕事をしてみないかというお話です。

それで私たち家族はその元豆腐工場のあった場所に引っ越しました。
二階が住居で下が元豆腐工場です。
その元豆腐工場の片隅で午前中だけ、簡単な取次業務から母は仕事を再開し、徐々に元気になって行きました。

1、2年すると、その場所で「こんにゃく」を製造することになり、母はその手伝いも
することになりました。
「こんにゃく」はよく売れたようで、最初短時間だけだったのが徐々に時間が長くなり、フルタイムになり、年末などは夜遅くまで作るようになりました。

その頃この会社でも「花こん」を作っていたのです。
母が「花こんは澱粉が混ざってるから痛みやすいの、だからあまり沢山はつくらないのよ」と話していたので、この時「花こん」に澱粉が混ざってることを知りました。

こんにゃくの製造は水仕事で、母は手伝いなので直接製造はしないけれど、出来
上がったこんにゃくをケースに並べたり運んだりと、冷たくて重いかなりキツイ労働
でした。
青森生まれの母はいわゆる「津軽のじょっぱり(強情張、頑固)」なので、一緒に手伝いをしていた二回りほども下の人に負けたくないし、弱音を吐きたくないので頑張っていました。

母はこの仕事を58歳まで続けましたが、自分のことを考えるととても出来るものではないと、ホントに頭が下がります。
その頃はちっとも、わからなかったのですけどね。
ずっと反抗的だったし、夜遅くまで帰ってこないでよく心配かけました。

姉は引っ越す前にお嫁に行き、その後妹もお嫁に行って、残っているのは兄と私と母だけでした。
二人とももう働いていたし、申し込んでいた公団住宅が当たったので母もこの仕事を辞めて引っ越すことに決めました。
母は「もう仕事辞めてもいいの?」と私と兄に聞きました。
何も言わずに頑張っていたけど、ホントはキツくて大変だったんだろうなぁと今になって思います。

この時に横浜を離れたのですが、まさか「花こん」が横浜のごく狭い範囲特有のものであったとは知る由もありませんでした。

母が働いていた会社は横浜ではそれなりの食品会社になったようですが、
母がこんにゃくを作っていた場所、私たちが横浜に最後に住んでいた場所は
取り壊されて無くなっていました。
今も、あの会社は「花こん」をつくっているのでしょうか。

「花こん」は亡くなった母の思い出にもつながる、
懐かしくて美味しいこんにゃくでした。
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最終更新日 : -0001-11-30

Sr.あぷりこっとさんへ * by マリラ
そう言われると、何だか照れくさいです。
私も、母が亡くなって6年経ち、
やっとこんな風に振り返ることができてます。
生きているときは、大して親孝行ではありませんでした。

そうですね、あぷりこっとさん、横浜にはわりと馴染みがありますもんね。
横浜そごうの地下食料品売り場の確か、藤方豆腐さんと言ったと思います。
試してみてください。

* by Sr,あぷりこっと
なんだか、涙が止まりません。
お母様の思い出と、花こんにゃく、、、、、。

母って、なんて強いんだろうって、私も思います。
でも、もっと、親孝行したいのに、できない自分たちを、
情けなく思うことがあります、、、、。

素敵なお話をありがとう、マリラさん。

今度、歯医者さんの帰りに、行けたら、行ってみたいです。


どんぐりんさんへ * by マリラ
花こんは、横浜に長年住んでいる人も知らない人がいるくらい、
ごく一部の地域特有のものらしいです。
普通のこんにゃくから考えると、歯ごたえが無くて、物足りないかもしれませんよ。

もう、女手ひとつというだけで後ろ指さされるような時代でしたから、
今でいう3Kみたいな仕事しかなかったですね。
パートみたいな形で父が亡くなる前からそのお豆腐屋さんで働いていて、
雇い主も良い方だったので、その後正社員としてずっとそこで働くことができました。
「不幸中の幸い」でした。

そんな時代の母子家庭は結束して、一致協力、肩を寄せ合わないと生き抜けなかったと思います。
だから、姉妹は仲良しですi-179
兄はお嫁さんが変人なので、ちょっと距離ありますけどi-229

当時は母の生き方好きじゃなくて、ひねくれて実に反抗的でした。
亡くなって7年経って、母の年齢に追いついてきてやっと少し分かってきたような感じです。
とにかく母の人生は波瀾万丈で、つまらない私の日常よりずっと読みごたえがあるものですから、いつか書いてみたい気もしています。





* by どんぐりん
花こんの存在 はじめて知りました
所かわればで その地域地域の食べ物があるんですね 写真で想像するかぎり もちもちして美味しそうですね (*^。^*)
マリラさんのお母様は ご苦労されたんですね いや すっごい頑張る方だったんですね
時代背景考えると その頑張りは少々ではないはず・・・ 豆腐屋さんも 良い方ですね
花こんにまつわる話 ちょっと感動しながら読みました
御姉妹仲良しなのも そのへんがルーツなんでしょうか

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Sr.あぷりこっとさんへ

そう言われると、何だか照れくさいです。
私も、母が亡くなって6年経ち、
やっとこんな風に振り返ることができてます。
生きているときは、大して親孝行ではありませんでした。

そうですね、あぷりこっとさん、横浜にはわりと馴染みがありますもんね。
横浜そごうの地下食料品売り場の確か、藤方豆腐さんと言ったと思います。
試してみてください。
2012-09-24-09:24 マリラ [ 返信 * 編集 ]

なんだか、涙が止まりません。
お母様の思い出と、花こんにゃく、、、、、。

母って、なんて強いんだろうって、私も思います。
でも、もっと、親孝行したいのに、できない自分たちを、
情けなく思うことがあります、、、、。

素敵なお話をありがとう、マリラさん。

今度、歯医者さんの帰りに、行けたら、行ってみたいです。

2012-09-23-23:00 Sr,あぷりこっと [ 返信 * 編集 ]

どんぐりんさんへ

花こんは、横浜に長年住んでいる人も知らない人がいるくらい、
ごく一部の地域特有のものらしいです。
普通のこんにゃくから考えると、歯ごたえが無くて、物足りないかもしれませんよ。

もう、女手ひとつというだけで後ろ指さされるような時代でしたから、
今でいう3Kみたいな仕事しかなかったですね。
パートみたいな形で父が亡くなる前からそのお豆腐屋さんで働いていて、
雇い主も良い方だったので、その後正社員としてずっとそこで働くことができました。
「不幸中の幸い」でした。

そんな時代の母子家庭は結束して、一致協力、肩を寄せ合わないと生き抜けなかったと思います。
だから、姉妹は仲良しですi-179
兄はお嫁さんが変人なので、ちょっと距離ありますけどi-229

当時は母の生き方好きじゃなくて、ひねくれて実に反抗的でした。
亡くなって7年経って、母の年齢に追いついてきてやっと少し分かってきたような感じです。
とにかく母の人生は波瀾万丈で、つまらない私の日常よりずっと読みごたえがあるものですから、いつか書いてみたい気もしています。




2012-09-22-18:24 マリラ [ 返信 * 編集 ]

花こんの存在 はじめて知りました
所かわればで その地域地域の食べ物があるんですね 写真で想像するかぎり もちもちして美味しそうですね (*^。^*)
マリラさんのお母様は ご苦労されたんですね いや すっごい頑張る方だったんですね
時代背景考えると その頑張りは少々ではないはず・・・ 豆腐屋さんも 良い方ですね
花こんにまつわる話 ちょっと感動しながら読みました
御姉妹仲良しなのも そのへんがルーツなんでしょうか
2012-09-22-10:52 どんぐりん [ 返信 * 編集 ]